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日本人の生活必需品【LINE】の産みの親「森川亮さん」のプロフィール

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こんにちは!

Hard Worker ナカオです。

ぼくたちが毎日利用しているLINE。とても便利ですよね。

世界で5億人以上の登録ユーザー数を誇り、日本国内でもコミュニケーションのあり方を変えてしまったほどの大ヒットアプリ「LINE(ライン)」。

Hard Worker ナカオ
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5億!

今ではもう、周りを見渡して使っていない人を見つける方が難しいというくらい、日本人の生活必需品となっていますね。

ぼくは、仕事でもプライベートでも毎日使っています。

ほとんどの方は、LINEでやりとりしていますし、仕事のプロジェクトもLINEで回すことが多いです。

徹底的なユーザー目線

森川亮(もりかわ あきら)/1967月1月13日生まれ。
photo by : http://bizmakoto.jp

 

企業→ユーザー・ユーザー→ユーザーのコミュニケーションにイノベーションを起こしたLINE。

そのヒットメーカーは、LINE株式会社の元CEOである森川亮さん。

現在はLINE株式会社の社長を後進に譲り、自らは48歳にして再び新たな会社「 C Channel株式会社」を起業し、女性向けの動画メディアを立ち上げています。

森川さんの、徹底的にムダを削ぎ落とし、とにかくひたすら「ユーザー目線」で考えるという経営姿勢は、世界でイノベーションを起こしたAppleのスティーブジョブズに通ずるものがあります。

しかし、スティーブジョブズもそうであったように、圧倒的な成功を手にするまでには紆余曲折を味わった森川さん。

新卒で入社した日本テレビの安定という道を捨て、年収は半分以下になり、社会的ステータスを放棄してでも、自らが情熱を持って全力で戦える戦場を選んだ背景には、「新しいこと意外はやりたくない」という森川さんの燃え滾るベンチャー精神があったのです。

そんな、LINEの産みの親「森川亮さん」の半生をまとめてみました。

大企業では、イノベーションは生み出せない

小学生の頃、母親のすすめで合唱団に入ったことがきっかけで音楽に目覚めたという森川さんは、中学高校とバンドを続け、大学時代ではプロのジャズドラマーを目指していたほど音楽に夢中だった学生でした。

筑波大学を卒業して日本テレビ放送網へ入社した森川さんは、当然音楽番組の制作を希望していたものの、いざ配属されたのは音楽とは全く関係のないコンピューターシステム部門。まさに挫折からはじまったキャリアでした。

そのせいで半年間はふて腐れていたそうですが、やるからにはとことんやろうと思い直し、コンピューターについて本格的に勉強をはじめ、いくつも資格をとって社内で最もコンピューターに詳しい存在の一人になりました。

インターネットというものが登場したのがまさにこの時期で、その存在に感銘を受けた森川さんは直感的に「テレビとネットを融合させたら面白いことが出来る!」と確信を持ち、インターネットを使ったビジネスに夢を膨らませます。

しかし、そこには大企業の古い体質と言える壁が立ちはだかりました。「新しいこと」を始めようとしても、なかなか仕事を進めることが出来ない。それどころか、森川さんの考える「ネットとの融合」は、テレビマンにとっては邪魔な存在でした。

そのことに気づいた森川さんは、即決で退職を決意しました。
退職を決意した理由は他にもありました。

当時、日本テレビから驚くほど高い給料をもらっていた森川さんは、日本テレビに勤めているだけで周りからチヤホヤされていました。しかし、周りの社会を見渡せば、”自分の本当の実力が、いかに給料やステータスと見合っていないか”は痛いほど分かっていました。

Hard Worker ナカオ
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8割の人間が、年収や社会的権力を現状維持を狙う中、森川さんが等身大の自分でチャレンジしたから今があるなと思います。

このままじゃダメになる」と森川さんは恐怖を覚えたそうです。

そうして転職した先はソニーでした。

当時のソニーが取り組もうとしていた「テレビとネットのコンテンツ(音楽や映画)を結びつける」ということが、まさに森川さんのやりたかったことだからです。

年収が半減してでも自分の情熱を傾けられる会社に転職した森川さんでしたが、やはりここでも社内の壁が立ちはだかります。

「なぜテレビとネットを繋がなきゃいけないのか?」と既存部門からの反発を受け、さらに本社からは退職間際のお偉い方々が次々と送り込まれてきて……。こんな環境じゃ「新しいこと」など出来るはずもありませんでした。

そして再びの転職。

さらに年収の半分を捨ててようやく辿り着いたのが、社員約30人の無名ベンチャー企業「ハンゲーム・ジャパン株式会社」(現LINE)でした。

MBAなしには、「LINE」は存在しなかった?

ハンゲームの話をする前に、森川さんがMBAの取得に通っていた話をしよう。

引用:http://style.nikkei.com

■子供のころから多芸多才、学習意欲が旺盛だった。

小さいころから音楽が好きで、小学生のころは、歌手としてテレビに出演したこともありました。次に楽器にはまり、ピアノ、ギター、ドラムなど、メジャーな楽器は一通り習得。高校でシンセサイザーと出合い、コンピューターにも興味を持つようになりました。これからは曲を作るにもコンピューターの知識が必要になると思い、筑波大学の情報工学に進学しました。

大学でも音楽活動を続け、音楽にかかわれる業界で仕事をしたいとの思いから、日本テレビに入社しました。ところが、配属されたのは思いもしなかったシステム部。大学の専攻が裏目に出ました。

仕事はコンピューターシステムの開発で、日本で初となる選挙の出口調査のシステムや、視聴率分析のシステムの開発を手掛けました。視聴率分析システムは業界で結構話題になり、講演依頼が相次ぎました。

でもやはり違う仕事がしたい。しかし皮肉なことに、仕事で結果を出せば出すほど、異動が遠のいていきました。

だったら会社を辞めようと思い辞表を出したら、好きなことをやっていいからと慰留されました。それで、インターネット事業を立ち上げ、会社のホームページを作って広告を売ったり、動画の有料配信を始めたりしました。今の日テレのホームページは、もともと私が作ったものです。

そのころから、経営への興味が徐々にわいてきました。ちょうど、日本企業が、コンピューターシステムの導入による経営のコストダウンや業務プロセスの改善に力を入れ始めていた時期。ですから、システム開発の仕事をしているとおのずと経営について考える機会も多く、それが経営への関心につながったのだと思います。

好きなことをやらせてもらえるようになったとはいえ、エンジニアという社内の私へのイメージは、変わりはありません。事業企画の仕事でキャリアパスを作るためには、何か会社にアピールできるものが必要だ。頭に浮かんだのが、MBAでした。

■働きながら、青山学院大学専門職大学院国際マネジメント研究科(青山ビジネススクール)に通い始めた。

当時は、仕事をしながら通えるビジネススクールは限られていて、いくつかある選択肢の中から、戦略論に強い青学のビジネススクールに通うことにしました。

授業は夕方からなので、授業のある日は、夕方いったん仕事を中断して学校に行き、授業後、再び会社に戻って仕事というスケジュール。月100時間ぐらい残業していましたが、仕事は基本、一人でやっていたので、時間のやりくりはそれほど大変ではありませんでした。

それに、仕事は頑張っても結果がでないことが多々ありますが、勉強は頑張っただけ結果が出ます。ですから、予習や課題のリポートはきついという思いより、楽しさが上回りました。

■答えのないビジネスの世界について学ぶことが刺激的だった。

特に印象に残っている授業は、ハーバード出身の石倉洋子先生が教える、ケースを使った戦略論の授業です。ビジネスは、これが正解というのがない世界ですが、正解のない中で自分の意見を述べ、議論を戦わせながら新しいことを学んでいく。それが最高に楽しく刺激的でした。一緒に学ぶ他業種の人たちから業界の裏話が聞けるのも、面白かった。

ただ、ビジネススクールで学んだことが具体的な形ですぐ仕事に役立ったかといえば、残念ながらそうではありませんでした。当時のテレビ局というのは、フレームワークや戦略といったMBAの世界とは程遠い世界。周りは、誰もそんなことに関心ありませんし、MBAの知識を振りかざすと余計な波風を立てるので、むしろ学んだことを出さないようにしていました(笑)。

ビジネススクールに行って一番大きかったのは、自分に自信がついたことです。それまで会社では、ビジネスについて議論することも、会議でプレゼンすることもなかった。だから、自分がビジネスパーソンとして果たしてどれくらいのレベルなのか、わからなかったし、自信もありませんでした。

ビジネススクールは、ある意味、いろいろな会社の人たちと戦う場です。そこである程度、結果も出していたので、自分に自信を持ちました。ビジネスパーソンとしての実力も付いたと思います。例えば、ある経営課題があった時に、数字をこう分析すればこういう課題がわかるとか、問題解決するにはこういうフレームワークを使うとか、ビジネスを深く掘り下げる力が身に付きました。

社内でのキャリアチェンジを目指しビジネススクールに通い始めたわけですが、卒業するころには、今の自分なら会社を辞めても食べていけるかなと、正直、思いました。

Hard Worker ナカオ
Hard Worker ナカオ

なんども話しておりますが、どんな環境に自分の身を置くかが大切と改めて思いました。

無名の企業が4年間でオンラインゲーム市場トップへ

2009年に設立されたハンゲーム・ジャパン株式会社は、当時すでに韓国で1000万人のユーザーを獲得していたパソコン向けオンラインゲーム「ハンゲーム」を、日本で展開するために作られた会社です。

当時ブロードバンドの整備が遅れていた日本には、大容量通信を必要とするオンラインゲームのサービスはほとんどなく、市場はまっさらなブルーオーシャンでした。

設立3年後のタイミングで森川さんが入社した時には、すでに100万人を越えるユーザーを獲得してたものの、収益化にはほど遠く、赤字を垂れ流している状態でした。

プロモーション活動をするにも、これまでいた大企業とは違って豊富なリソースは一切ありません。テレビ時代では大きな予算を投下すれば良かったマーケティング一つとっても、無名のベンチャーでは自ら知恵を出し、自ら動いて汗をかかなければなりません。

しかし、その膨大な手間と試行錯誤によって、ビジネスパーソンとしての能力が鍛えられたそうです。

森川さんは元テレビマンの経験からヒントを得て、テレビでいう生放送のように、オンラインゲームでもリアルタイムのイベントを開催すれば盛り上がると思い立ち、毎週のようにイベントを実施しました。

するとイベント参加者は口コミでどんどん増加し、10万人を集めるまでに大きくなりました。

そして入社から五年後、森川さんはハンゲーム・ジャパンの社長を任されることになり、社員30人の赤字会社はわずか4年で日本のオンライン市場でナンバーワンになっていました。

 

オンラインゲームからフィーチャーフォン、そしてスマホの戦いへ

森川さんが社長に就任し、ハンゲーム・ジャパンがオンライン市場のトップに立った頃、オンラインからフィーチャーフォン向けゲームのニーズが高まっていました。

ユーザーの動きをいち早く察知した森川さんは、どこよりも先駆けて2004年にフィーチャーフォン向けのゲームサイトを立ち上げましたが、致命的なミスを犯してしまいます。

それは、従来のPCゲームを捨てきれずに守ろうとしてしまったことです。

もとより一部の社員からは「お手軽ゲームなんて本来のゲームじゃない」と反発を受けてきました。オンラインゲームでトップに立った栄光を捨てきれず、あくまでフィーチャーフォンは「PCゲームを補完するもの」というスタンスになっていたのです。

そんな隙をついて、フィーチャーフォン・ゲームに正面から全力投球でアプローチしてきたのが、DeNAの「モバゲータウン」であり、GREEでした。

モバゲータウンは、森川さんたちよりも2年も遅れてのスタートであったにも関わらず、圧倒的な成功を収めます。森川さん達が自分たちのスタンスの間違いに気づいた時には、もう挽回は不可能でした。フィーチャーフォン市場での勝負は、惨敗を喫してしまったのです。

Hard Worker ナカオ
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しかし、このフィーチャーフォンでの敗北こそが、のちのLINE誕生への糧となりました。

フィーチャーフォンからさらに時代が進んで、スマートフォンの波が訪れた時です。

森川さんら経営陣は、過去の失敗を二度と繰り返さないよう、他者に先駆けて「全てのリソースをスマートフォンに集中させる」決断が出来ました。

スマートフォンユーザーにのみ集中したこと。

これが勝利の要因でした。

森川さん達が犯した過去の失敗と同じように、ライバル他者はみな「フィーチャーフォンの成功」にすがり、リリースするスマホアプリはどれもこれも、フィーチャーフォンと共通のID認証が必要な作りになっていました。

ユーザーからしたらこれほど面倒なことはありません。ユーザーのみを見ていた森川さんは、LINEからFacebookやTwitterなど全てのIDを排除し、「電話番号だけで簡単に認証できる」という極めてシンプルな仕組みを構築しました。

そしてこのシンプルさこそが、LINEがこれほどまでに爆発的に普及する要因となったのです。

 

要約

徹底的なユーザー目線」ーーそれこそが森川さんのクリエイティブに対する命題です。

大企業ではそれが出来ませんでした。

大企業で最優先にされるのはユーザーではなく、自社であり、伝統であり、既存のシステムであり、立場、名誉、プライドであったからです。

森川さんはそれら全てのムダを排除し、優秀なクリエイターたちがユーザーのニーズのみを考えて、自由に仕事に没頭できる組織作りを実現しました。

その結果、LINE株式会社は他社の追随を許さないほどのスピード×クオリティで爆発的な成長を遂げることができました。

もう一つの命題は、「シンプルであること」です。

LINE株式会社には優秀なエンジニアが沢山います。当然、LINEアプリには、やろうと思えばもっといくらでも多くの高機能を付けることができました。

しかし、ユーザーの使いやすさだけを徹底的に追求した森川さんは、「その機能がないとプロダクトがなりたたない」といえる必要最低限度の機能だけを残して、他は全てを削り落としました。

Hard Worker ナカオ
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これは、まさにエッセンシャル思考ですね!

直感的に分かりやすく、圧倒的に使いやすいLINEは、瞬く間に日本全体へ浸透していきました。

iPhoneがそうであったように、とにかくシンプルであること、ユーザーがそれを使いこなし、「支配感」を持てたことこそが大ヒットの要因であったように思います。

現在は社長職を後進に譲り、また新しいメディアを立ち上げようとしている森川さん。 48歳で起業した「C Channel」は、女子のための動画ファッションマガジンと銘打って、新しいメディアブランドを創造しようとしています。

「新しいことしかやりたくない」という信念のもと、今度はどんな新しいサービスでイノベーションを起こしてくれるのか非常に楽しみなところですね。

ぼくも、ユーザー目線を徹底して、インターネットを通じて、まだ世の中にないサービスを提供し続けることをミッションとして、Hard Workして行きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。